子どもが幸せに過ごすことは、嬉しいことですよね。
でも、わたしたち大人もそうであるように、子どもも24時間365日幸せでいるのは現実的な話ではないです。 だから、子どもが幸せでないと感じている時に、泣いたり怒ったりして知らせることは当然に起こります。
『子どもの幸せ』を育むために、子どもの表現は、それが私たちの胸をザワザワさせる怒りや泣きだとしても、とても重要な情報だと考えることができます。
泣いたり怒ったりする子どもの態度を、一概に 「うるさい」「わがまま」「子どもっぽい」 と押さえつけることは、私たちが『子どもの幸せ』を理解するチャンスや、子どもが幸せに暮らすためのスキルを育てるチャンスを失ってしまうでしょう。
子どもが泣いたり怒ったりするのを許すと
「甘やかし」とか「わがままになる」
と不安に感じると、強圧的な態度になりがちです。
ポジティブ・ディシプリンを学ぶと、そのような不安や態度から次第に、
協力的で、お互い敬意を持ったコミュニケーションができるようになります。
ポジティブ・ディシプリンでは、4つ、子育ての大切な原則を持っています。
その一つ、「子どもの考え方・感じ方を理解する」では、
0歳から18歳の子どもの発達について学びます。
身体と同じように、脳や心の発達にはステップがあるので、
年齢に応じた特徴的な感じ方や考え方が子どもにはあります。
ポジティブ・ディシプリンの演習では、
その年代の子どもがどんな体験をし、どんな考え方・感じ方をするのか理解できるようになっています。
子どもの感じ方・考え方への理解は、子どもが泣いたり怒ったり他にも大人がして欲しくないことをするのには、もっともな理由があると感じられ、子どもを誤解し怒ることは少なくなります。
例えば
お母さんのお腹の中で、温かく柔らかく程よい暗さで絶えず栄養を受けて暮らしていた赤ちゃんは、生誕とともにお腹の外の冷たく明るい世界に生活の場が変化します。
人間の赤ちゃんは、生物の中でも特別に未熟な状態で生まれてきます。移動もできなければ、捕食能力もない。
そんな赤ちゃんは、「泣く」という表現で、自分の危機を知らせるサイレンを鳴らします。
表現できることがとても大事で、表現できないと命の危険が迫ります。
そんな赤ちゃんの感じ方やご作法を理解できると、
「泣く」ことを意見表明だと受け取り、
その意見を大切にし、
意見を聞き入れ(泣いたらお世話をしてあげる)、
こちら(お腹の外)の社会への参加を歓迎できるでしょう。
「泣く」のはわがままではないし、ましてや養育者を責めているわけではありませんから。
また数年経ちますと、多くの子どもが歩き出し、言葉を使い出します。
すると、人間としての機能がおおよそ備わったように見えますので、
養育者は子どもだけでは難しいからしてきたお世話を、しつけとして子どもに教えていきます。
大人からすると当たり前の文化的な言動は、子どもにとっては最初は不快に感じたり、難しいものがあります。
例えば、排泄はトイレでする、歯磨き、硬いくつを履く、穴がいっぱいの布を上手いこと着る、あるタイミングで寝る、何かを見越して準備する、人の気持ちを考えるなどなど。
自分でやりたいこと・やるべきだとされることが沢山で、思い通りいかなかったり、因果関係のよく分からない体調の変化(空腹、眠気、体調不良、感情の高ぶり)に襲われたりで、かんしゃくが爆発することが増えます。
「自分」という感覚が育ち、「できる」経験を重ねると、自分が粗末にされたり、自分の思ったようにできないと、怒りの感情がわくようになります。「自分」を笑われたり、ムシされたり、頭ごなしに怒られると、傷つき自分は愛されておらず大切でないと感じたり、とても怖い思いをします。
そんな子どもの感じ方や考え方を理解できると、かんしゃくや怒りも成長のステップで、
感情を糸口とした意見表明だと受け取り、
意見に耳を傾けることができるようになるでしょう。
かんしゃくも怒りも自分を表現する一つの方法です。
ただかんしゃくや感情をぶつける方法では、
相手と交渉して円満に問題解決し、目標を達成することが難しいので、
かんしゃくからより洗練した表現技法へ導くことが必要になります。
例えば、子どもが感じている気持ちの名前を教えてあげること、
お母さんも同じ気持ちになることがあるから気持ちが分かること、
気持ちを言葉で人に伝えることができることを教えてあげます。
そんな風に、子どもの声を聞き、気持ちを言葉にするのを手伝い、表現を洗練するように繰り返し教え、励まします。
どのように感情表現をするか、暴力を使わずに、どうやって衝突を解決するか、見本となって示すことができます。
協力的に、お互い敬意を持ったコミュニケーションができるようになるために、まずは大人がモデルを示すのが、子どもには分かりやすいでしょう。
思春期になると、赤ちゃんの「泣き」のようなわかりやすいものとは違う表現が多く見受けられます。それは、不定愁訴だったり、登校しぶりだったり、非行のような形かもしれません。
以前から、子どもの声を聞き、気持ちを言葉にするのを手伝い、表現を受け入れるよう繰り返し努力を続けてきた思春期の親は、
子ども自身ですら分からないその複雑な心理や大きな変化を、感じ取ることができるでしょう。
日頃から子どもの話を聞き、表現を励まし、コミュニケーションをとってきていれば、
子どもは、養育者と一緒にいることを避けてばかりはせず、養育者に話をしようとする可能性が高まります。
子ども自身から情報を得られる親子関係が作れていれば、子どもの変化に怖がることなく、子どもを信頼し、子どもが大人へと脱皮するのを支えられる可能性が高まります。
親がともに生活しながら、
子どもが『自分の幸せ』を見極めていく機会、
他者とともに幸せに暮らすためのスキルを育てるチャンスは、
この思春期が最後かもしれません。
この時期には、子どもが自分自身の人生の運転手ですから、大人が勝手にハンドル操作することはできません。でも、側にいて、ナビゲートしたり、セーフティーネットとして支えることができます。
子どもの「表現」に注目してここまでブログを書いてきましたが、最後に
ひきこもりや不登校の支援にも尽力されている臨床心理学者の高垣忠一郎さんの書籍を引用します。こちらにも「表現」が登場します。
まず人生を一種の「レース」と見るような見方に立ちますと、人生をそういうふうに思い描いている方には「登校拒否・ひきこもり」は「レースからの脱落」です。だから一刻でも早くレースに戻そうとして対策を考えます。なんとかうまく操作して子どもを動かそうとします。そうすると、これはコミュニケーションの断絶になります。(略)今のような人生の見方で言いますと「人生の今」というのは「人生のゴールに向かう途中」でしかありません。出来るだけ効率よくスピーディに途中の駅は走り抜けるのがいいわけです。(略)登校拒否やひきこもりの期間というのは、一刻でも早く抜け出すべき大きな無駄な時間なんだ、こういうことになってしまいます。
これに対して、人生を「その人の生命の表現」 だというふうに見るという立場で、登校拒否あるいはひきこもりを見ますと、(略)わたしたちはそれが何を表現しようとしているのか、訴えているのかを聴き取ろうとする、そういう姿勢が求められるわけです。登校拒否・ひきこもりを「表現」と見るならば、それを聴き取り、わかろうとするコミュニケーションの成立によって、お互いの絆が強まっていく、深まっていく。
子どもの発するものを、
「反抗」か「従順」かとか、「勝ち組」か「負け組」かすぐに判断せず、
「表現」としてまずは受け取ってみる、
そしてなぜだろうと子どもの感じ方・考え方を理解をめぐらしてみる、
するとコミュニケーションが変わってくるかもしれません。
引用: 高垣忠一郎「競争社会に向き合う自己肯定感」
こちらの記事もご参考に:『子どもの権利』は子どもをわがままにする?
#子どもの権利
#子どもの意見表明
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